足助病院では訪問診察・看護などを強化し、看取り体制を強化して在宅でや施設で最期を迎える医療サービスに力を入れています。
そんな折に素敵なお話を耳にしました。
私が関わっている施設の職員とのやり取りです。
いつものように施設を訪問して私の?足助病院の?自慢話に話を咲かせる私。
その日は、おもむろにそこの看護職員に出鼻をくじかれました。
職員『院長先生!今日は私たちの自慢話を聞いてください!』
私 『良いですよ!ただ、ネタの判断基準のハードルは高いですよ!』
職員『大丈夫です!きっと先生の心は波立ちますから』と
私 『“心波立つ”のフレーズを使った時点でゴウカク!ハイハイ!それでね~』
職員『ハイハイじゃなくて、聴いてください!
実は足助病院で治療した後に看取りの体制がとれる施設ということで私たちのところに戻ってきてくれた方が居ました。
その人の最後の希望が鮎の塩焼きを食べたいということだったのです。
職員皆で工夫して、鮎の塩焼きを焼いて提供したのです。
ご家族の前で頭からむしゃむしゃとほうばって食べたのですよ。
そして、その食事が最期の晩餐になったのです。
私達の方がとても満たされた気持ちになりました。』
私 『それは素敵な話だね… 確かに心波立ったわ!』
最終的にはその方の医学的な診断名は“老衰”だったようです。
そこで、はたと想いが交錯しました。“老いて衰えて”のイメージと乖離している最期だなと。
日本の3大死因は悪性新生物・心疾患・老衰の順です。
老衰の定義は「高齢者で他に記載すべき死亡の原因がない、いわゆる自然死」で、
加齢で身体機能が自然に衰えて死亡したと判断されたときに、死亡診断書に「老衰」と記載します。
確かに医学的身体的には“老いて衰えた”訳だけれども、精神的には“逝った”のだと確信しました。
看護部の“看仏連携”を推進している足助病院の長ならでは発想かもしれません。
「逝く」は、「死ぬ」の意味を持ちますが、比較的敬意を表す言葉として使われます。
文語表現や報道などで使用され、特に年配の方や敬愛すべき人物が死去した際に使われることが多いです。
少し調べてみると「逝」の漢字の成り立ちは
【「立ち止まる足の象形と十字路の象形」(「行く」の意味)と
「ばらばらになった草・木の象形と曲がった柄の先に刃をつけた手斧の象形」
(「斧で草・木をバラバラにする、バラバラに離れる」の意味)から、
「目の前から離れて行く」、「去る」を意味する】
とありました。
体は朽ち果てて離れて行っても、想いがご家族や周りの人々を集めて温かく包む、究極の最期が“老逝”なのです。