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足助病院コラム

Asuke Hospital column

2024/03/13 

Vol.255 「恩師」

執筆 名誉院長 早川富博

先日の母校(名古屋市立大学医学部)での講義の後に、来年は卒業して50年だ、と気づきました。
大学生時代を思い起こせば、入学当初は学生運動の終末期といえども、まだ大学封鎖などがありました。
医学部では、教授、医学部長、学長を対象に、団交(団体交渉)と称する集会がたびたび開かれて、当時の偉い人たちに向かって「総括しろ!」などと不遜な言葉を投げつけていたものでした。

そのようなことは1年で終わりましたが(1969年)、翌年に大学管理法案(大管法:大学の自治を狭めるという法案:大学紛争が長引いたのは大学の自治が機能しなかったと捉えられて、文部省による強制力を強める内容)が国会に提出されたことを契機に、再び「大管法」反対のデモが起きました。
このデモでは心ある教授もデモに参加していました。

しかし、荒廃した大学自治の元では、反対デモも収束し、小生も含めた学生たちは急速に元の生活に戻りました。
学生時代に尊敬できる先生方は数名みえました。
そのうちの一人の教授に、卒業後の医師になるべく研修を依頼しました(入局)。
学問はともかく、人間味にあふれた先生でした(もう故人となられました)。
医師になるときの恩師であります。

大学以前にも恩師と言える先生が3人います。
まず小学校の4年生から6年生までの3年間担任であった長谷部先生(女教師)。
低学年時代成績が芳しくなかった小生が、この時から優秀な兄に追いつきました。
小学校の同窓会があった時にお会いできるかと思っていましたがご高齢になられたのか出席されませんでした。
心残りです。

中学校の恩師は3年生の馬場先生でした。
中学卒業時に、父親の影響もあり、工学系に進みたいと考えており、出来立ての豊田高専に進学したいと希望したところ、馬場先生は。
「豊田高専にいくのは良いけど、最終的には大学に行った方が良いから刈谷高校へ行きなさい」と進めてくださいました。
この勧めがなかったら医師にはなっていません。

高校では2人の恩師に出会いました。
高校3年生の担任で物理の中村守先生でした。
温厚で優しい先生でした(すでにB型肝炎の肝硬変で亡くなられてます)。

高校2年の担任の杉田英介先生は歴史の先生でした。
理数系の小生にとっては受験科目に入っていないので授業中は内職(数学などの問題を解いている)をしていたものですが、それを咎められたことはありません。
同じクラスに今の連れ合いがいたので、後日結婚するときに仲人お願いしました。
この恩師もすでに他界されました。
最後は足助病院でお見送りできたので、少しの恩返しが出来たでしょうか。

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