MENU
green

足助病院コラム

Asuke Hospital column

2020/12/15 

Vol.113  「あの時のぼくの語ること今ここで語ること(思い出の歌を本場の街で聴く)」

執筆 足助病院職員

診療協同部長兼薬剤部長  野村賢一

平成十九年の秋、ぼくは日本農村医学会学術総会という厚生連病院が主体となる発表会に薬局長の齋竹先生と出かけた。
学会会場は新潟県の長岡駅前のホテルニューオータニ長岡で、メンバーは齋竹先生の他に、塚本院長、鈴木事務長、看護師の杉原、春日、管理栄養士の中村、事務職の河合がいた。ほとんどの者が発表日前日より渥美半島の田原市から半島の付け根にあたる豊橋で新幹線に乗り、東京経由で上越新幹線を使い、谷川岳の分水嶺をくぐり長岡に入るのだった。
今回の学会では、院長・事務長・薬局長の三人の管理職が勢揃いしていた。
ぼくもここ数年来連続して、帯広、広島、秋田、軽井沢、そして今回の長岡と学会発表の常連客の顔をして参加しているが、このような顔ぶれに遭遇するとは夢にも思わなかった。ただおったまげるしかなかった。
発表する若い職員には管理職がじきじきに会場フロアーより熱い視線を投げかけていることで、昔だったらひどく緊張する者もいようが、今では発表での失態も旅の恥捨て気分で全く動じることはない。発表に関して言うのなら、ぼくはみんなの発表意識は二十年前とはひどく変わったものだと思った。人前で上がることのない度胸ほどこれからの職員には必要な資質であると思うからだ。
学会発表が済んだ後は、夜の長岡の小料理屋で渥美病院職員の慰労会が催される。
会費は病院持ちで足りなければ管理職が補ってくれるから懐が痛まない。本当にありがたいことだと思う。
とはいうものの、せっかく新潟に来たのだから、酒は新潟の幻の銘酒と言われる、久保田、雪中梅、越乃寒梅、八海山、〆張鶴が飲めるだろうと期待していたが、やはり借金の多い病院であるがため、名もない地酒にしかありつけない。
杯を重ねる毎にゆるやかに酔いが巡る。疲弊した身体と心の中にあったストレスの灰汁がじんわりと溶け始める。
そのころになるとみんな顔を真っ赤に染めて、愚痴ともつかぬ鬱憤がいたるところで破裂する。ぼくの横に席をとられている塚本院長などは、院長回診と名乗って行っている週一回の看護部長との回診のことを、主治医でもないこの俺がのこのこ患者の様態を診てもあれで効果が本当にあるのかね、野村さん、とぼくに聞いてくる。
ぼくは掌で口許を押さえて小声で、あれですか、あれはですよ、そうですね、医は仁術なりに近いかな、とこぼした。
言葉が良く聞き取れなかったのか院長は首をスッポンのように伸ばして、ぼくの口の前に耳をひょっと向ける。
今度はゆっくり、はっきりと言葉を噛み締めながら、イ・ハ・ニ・ン・ジュ・ツ、と告げた。院長と看護部長が病室に出向いてくれることで、そういう思いやりが患者の気持ちに伝わり、病院の評判につながるよ、と言うのだった。
院長はまぶたを細めると口をへの字に曲げ、医は仁術だよな、声の質を下げ上機嫌な面持ちで苦笑いする。そして、目の前の杯に、なみなみと注いである新潟の酒を一気に飲み干した。
銘酒ではないが、ぼくには院長がかなり美味しい酒を胃袋に流した時の表情をしたように思えて仕方なかった。
二次会は駅前のカラオケボックスに行った。ぼくはこの時間が待ち遠しくて仕方なかった。ぼくは本場の街で齋竹先生の十八番の曲を聴きたくて仕方なかったからだ。
ぼくが渥美病院に勤めだし下宿していた頃、入って一年も経たない青二才のぼくを齋竹先生はスナックの電話を借りて、「ひろこ」で飲んでいる、お前も来い、とぼくを呼び出してくれたものだった。ぼくは退屈な日々を過ごしていたので齋竹先生からの夜の誘いほど嬉しいものはなかった。カラオケの曲が受話器から流れてくると、酒場が盛り上がっていることでぼくの胸は高鳴り、そして齋竹先生の言葉が重量感のある声によって一つひとつが鉛みたいに重くふちどられて貴重な神の声みたいに聞こえるのだった。受話器の中の声が腹の底まで沁みた。感極まる本当に有り難い誘いだった。
ぼくは、カラオケのリモコンを手にすると、齋竹先生に気づかれないよう、彼が当時、歌っていた曲番をリモコンに記憶させた。この曲は、美川健一が歌う、新潟ブルースである。
この歌を新潟の夜の街で、齋竹先生に歌わせなくては、ぼくは、二十五年前、ぼくを田原のスナックに連れて行って何度となく歌って人生とはなんぞやを教えてくれた彼に対して申し訳が立たないと思ったからだ。ここであの時の恩を返しておかないともう返す時がなくなってしまう。
イントロが流れ始めると酔いで足元がおぼつかないはずなのに、齋竹先生はマイクを持ち立ち上がる。
背筋を伸ばしてテレビ画面と対峙する恰好は二十五年前とまったく変わっていない。
「思い出の夜は霧が深かった。今日も霧が降る万代橋よ。別れの前に抱きしめた。小さな肩よ ああ 新潟は 新潟は 面影の街 ...」
彼の歌を聴きながら涙が溢れてきた。涙が弧を描いて頬をつたった。胸が熱くなると全身に鳥肌が立った。どうしようもなかった。
声のふるわせかたといい、声の質といい、声量に甘みと情感が加わり、思い入れの加減のしかたもうまかった。
生きることに正統派を求めているからだろう。あるいは、職場に関わる深みにもぐって堪え忍んだ者が語りかける、しゃべることが気味悪くて照れくさいのか、ぼくは彼の歌いぶりから彼の人生の心棒みたいなものを五十歳の手前にして知るのだった。
あえていよう。そんな齋竹先生を上司に持ったぼくは、彼のことを生きているだけでやたらにいい男だと思うのだった。
コラム一覧へ戻る