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足助病院コラム

Asuke Hospital column

2021/01/12 

Vol.117  「あの時のぼくの語ること今ここで語ること(短編小説:南国のパピオン)」

執筆 足助病院職員

診療協同部長兼薬剤部長  野村賢一

このまま海外旅行に行けば今頃私は南国の島サイパンにいるはずだった。
地上に忌々しいCOVID-19の生命体がいなければ、私は確かに外国の土地を踏んでいた。
新型コロナウィルスという疫病の蔓延が以前の世界の日常生活を狂わせる。
政府はその対応策として以後の世界に感染拡大を予防する新しい生活様式を国民に求めた。
一部の仕事や会議は人と人との接触を減らす目的でテレワークやテレビ会議が推奨された。
もちろん、人々は手洗い、うがい、マスクと3密(密閉、密集、密接)の回避でCOVID-19からの攻撃に対抗した。
ところが、国民に不要不急、外出自粛を要請すると経済活動は停止し、一方、経済活動を回すことに重心を置くとCOVID-19が第2波、第3波となって襲来し感染者数を激増させる。
こうしたコロナ惨禍の中、私は永年勤続休暇を頂戴したが、COVID-19の収束は未だ以って先が見えぬ状況にあり、私はひたすらステイホームで過ごすしかなく、あいにくじっと巣籠もりしているしかなかった。
しかしそんな中、私の心像風景はCOVID-19から逃れ南国の島に滞在しているのだった。
 
透き通る海の中の青い珊瑚礁を見て私はその美しさに見とれ歓声を上げていたに違いない。沖まで伸びる白砂の上を闊歩して私は碧空の輝く太陽のまぶしさに感動を覚え、南国の島の光彩を全身に受け、風の中のトロピカルな薫りに私は酔い、息づく生命の喜びをサイパンの地で満喫していたはずだ。
一年前に、私は蓄積した疲労を外国の新鮮な空気の中で洗い流そうとした。リラクゼーションの真の意味を求め、海外旅行の申込用紙に自分の名を連ねた。
私にとってのリラクゼーションの真の意味とは。今振り返ってみるとそれはあなたに出会うための心の旅だったりする。確かに私は現在日本にいる、間違いなく私は日本の真ん中にいる。ただ私はあの時こういう出会いも世の中にはあってもいいのではないかと、一縷に想ったのは間違いのないことだった。あの人に出会って、私の心の襞にこびりついた垢を洗濯機で取り除くようにして、新品同様の純白を取り戻していたはずだった。
私はツアー一行とは別行動をとり、一人、ランニングをした。宇宙が透き通って見えるくらいの青空の下を小型リュックを背負い、ランパン・ランシャツでその地を走った。
バード・アイランドにたどり着いた。昼間なのにあまり鳥は見あたらなかった。岸壁の方を見回すと四、五匹のウミガメがはるか眼下の海に浮かんでたゆたっていた。ここでいったん休憩をとることにした。小型リュックから小銭を取り出し、海沿いの雑貨屋でアイスコーヒーを買った。冷えたコーヒーは喉元から一気に胃まで滑り落ち体内に潤いを与えてくれる。うまいと舌鼓をし、吹き出る額の汗を右腕で擦り飛ばし、生命の賛歌に感謝を表した。
サイパンいちのダイビング・スポットと言われるグロットを経て、ラストコマンドポスト(バナデロ)へと向かった。ジャングルを彷彿とさせるあたりまで来ると、無数の小さな蝶が舞っていた。サイパンには蛇はいないということだが、森林が近づいてくるにつれ気持ちは徐々に縮こまって来る。
旧日本軍の最後の司令部ラストコマンドポストから、長大な下り坂を一気に下り降りた。長い下り坂は歩行には最適であるであろうが、ランナーにとっては足腰に重力という加重が加わり、それが次第に重荷となり筋肉を痛める。スピードを抑えながらゆっくり走っていると、視線の先には白色に輝くホテルが見え始めた。
ホテルのビーチでチャモロバーベキューの昼食を取ることにした。骨付きリブや、サイパン風の春巻き、パパイヤの漬物、焼きバナナを片っ端から注文した。十分エネルギーを消費しているから、どれもこれも美味しくテーブルの上の食べ物は見る見るうちに無くなっていった。
お腹が一杯になると、これ以上走れる状態ではなくなった。午後からも1時間弱走る予定にしていたが、すべての物に対して腹八分でいいという概念が私を支配していたから、予定路線を外れても私は満足していた。昼食後はタクシーを呼んでホテルへ帰ることにした。
ホテル部屋に戻るとシャワーを浴びた。半日の間、亜熱帯の肌の深部に届く太陽光線の刺激を浴びて走っていたから、首筋から肩のあたりの皮膚がひどく痛んだ。流水の温度を調節するコックを一番低く設定し蛇口をひねった。シャワーを頭からかぶり、肌のヒリヒリが治まるまで水を流し続けた。
ソファーにもたれガラス窓から外の海を見た。白く光る波の輝きが美しかった。白砂まで打ち寄せてくる波がどんな理由で姿を消すのかと私は考え始める。白波は儚い蜻蛉のようで滑らかに砂に吸収されて形をなくした。時間という概念が宇宙の中にはなくても、地上の至る所に隠されているから海水が消えるのだと私は思った。朦朧とした頭は思考という回路を遮断する。時間というあみ目の間で暮らしている日本での生活が不思議なことにこの時、滑稽に思えるのだった。

夕食まで時間があったのでマッサージを頼むことにした。日本から抱えてきた過労の垢とサイパンでこしらえた心地よい疲労を取り除いてもらおうと考えて呼ぶ。
白い部屋の真ん中にあるベッドに私はうつぶせになり、マッサージ師が来るのを目を閉じて待った。ベッドに横たわると、にわかに上下の瞼は磁力にでも引かれるような力により重くなった。睡魔の急襲に抗うことなど出来るわけもなく、ただ私の意識はひたすら薄れ遠のいていくのだった。
どれだけ眠っていたのか知らないが、太股からふくらはぎにかけて女の手でマッサージされていることに気づいた。私の意識は次第に現実の世界へと呼び戻される。
彼女は両手を使い全体重を私の足に乗せてマッサージをする。丹念にしかも私の固くなっている筋肉の芯を見つけては、そこにつぼでもあるかのように集中的に指圧をした。疲労の急所を押さえられると私は痛みに対して嗚咽を上げた。が、一瞬のことなのでほんの少し我慢すれば体内にはびこっていた不純物が消えていくのが分かった。細胞の一つひとつの新陳代謝がマッサージにより活発になっていくことが手に取るように分かった。
「凝っているようですね」
マッサージ師の大きくもない声が私の頭の後ろから聞こえた。流暢な日本語を話すので、マッサージ師が日本人であることに戸惑いを感じたが、私は振り向くこともせずに目を閉じて、母親に抱かれて気持ちよく眠る子供のようにうたたねを続けた。
「こんなに筋肉の疲労している人、はじめてだわ」
女の優しい声が私の鼓膜をさざ波のように振動させる。私は曖昧な意識の中をさまよっていたが、このまま海溝の深みまで降りて行き光の届かない闇の中で静かに眠ってしまおうと思った。けれども、先ほどの女の柔らかい声が耳元から離れず、次第にその優しい声の響きは頭の中で増幅され、女のまろやかな声音が私の全身を包み込み取り囲んで行った。覚醒神経が刺激を受けて、闇の底にいた睡魔は少しずつ窓の外へとはじき飛ばされて行く。 
「何をやっておられたのですか」
肩胛骨の上を両手で押さえると、女は腕立て伏せをする格好で私の出っ張った背中の骨を力強く押した。私は一瞬表情を強ばらせたが、すぐさま肺の中に溜まっていた空気を吐き出すと、痛みと伴に疲労の澱が消え失せている自分に気づいた。気持ちが和らいでいる。
女のわずかな体臭が南の島特有の甘い香りを連れてくる。マッサージに力を込めれば込めるほど彼女の芳香が鱗粉を撒き散らす蝶そのものに思えてくる。その滑らかな匂いの根元を探るとそれはマリアの腕に包まれている時に感じる芳香ではないかと私は妙な想像力にかき立てられた。
「この島でランニング、気持ちをリフレッシュしてきました」 
午前中に走った場所の端々をおぼつかない記憶の中から取り出しては、女にたどたどしく伝えた。南の窓が開いているので、潮の香りを織り交ぜた微風が室内に流れてくる。潮風は疲労から解放されつつある私と私の上でマッサージしている女の髪を撫でた。窓の外の光が白くそのまぶしさのためか、部屋の中にいる二人の容姿はところどころにまどろんだ影をたたえていた。二人を包む時間が進んでいるのか立ち止まっているのか後退しているのか、私はもう一度自分の意識の中を覗き込んで確かめた。潮風が部屋の入り口付近で戯れている。縞のレースカーテンの擦れる音が扉の方から聞こえた。
走った場所の地名をはっきり知らないが、私の話す言葉一つひとつに女のうなずいている様子が理解できた。はい、はい、と返事する女の声がマッサージするタイミングと重なり、私の体はますます筋肉の中の疲労を遠のけていく。オーケストラの指揮者にでもなった気持ちで、私は今日走った場所とどうしてサイパンまで来てランニングするのか、彼女に告げた。
「現役に終止符を打ち新しいエネルギーを取り戻そうと」
渡航目的をまったく知らない女に自身の内心を露呈した。女はオプショナルツアーに旅行一団と行動を伴にしない私のことをいぶかしがるわけでもなく、あなたみたいなはぐれ者も社会にいるのよ、と目尻を下げて含み笑いを浮かべ乾いた言葉を返す。その言葉を聞いて、どういう訳か知らないが、私は瞼から熱い涙がシーツへこぼれ落ちていることに眉をひそめる。だんだんその女の顔が気になり出した。
「すっかり元気になったよ」
 私は軽くなった体を起こそうとした。しかし足に力を入れてみたが、生まれたばかりの赤ん坊のようで足にまったく力が入らなかった。
「後ろを向いてはいけません。うつむいたままでいてください。もう少しやらせてください」
女の緊張感をもった声が背後から届く。もうこれ以上揉まれたら、私の体が軟体動物になってしまうのではないか、そんな心配が私の脳裏を駆けめぐった。でも心配は束の間、こんな素晴らしいマッサージの出来る人の顔を見たいと私の願望は募るばかりだった。
「わたしは盲人です。目が見えないから疲れている人の弱いところがよく分かるのです。心も体も」
「私のこと、日本にいないあなたが、どうして分かるの」
私は女に対してますます愛おしさを覚える。弱いところがよく分かる、という言葉の一端が鮮明に青空の彼方へと浮上していく。私はなおさらに女の顔がみたくなった。
恐る恐る首をゆっくり後ろに回してみた。女の手が止まった。
どうしてだろう、私が振り向いた事など分かるはずもないのに。女の指の先も掌からも力が抜けている。微動だしていないのだ。何を感じて女は手を止めたのだろう。私は女の行為の奥にある行動の変化に戸惑った。
下を向いていた女の顔が徐々に上がり私の顔を捕らえた。目の見えない女の視線が痛々しいほど私の眼孔を射す。針でもって皮膚を突っつく痛みとは違い、女からの眼差しは仕事や家庭では味わえない骨の芯まで突き刺す心地よい痛みそのものとなる。
純真な女だろう。盲目のマッサージ師の視線に対して私の心が騒ぎ出した。
「南国のパピオン・・・」
女の姿が白い羽衣を纏っている天女のように見えた。心と心が通じ合える者同士に繋がる小さな愛をこの南国の一室で感じた。
私の目と女の見えない目がサイパンの一室でぶつかり合った。
真昼の午後、見つめ合う二人にとって、幾川を越えて来た者同士の熱帯の風がその瞬間に場所と時空を超えてその部屋の中で魂の共鳴を放ち、二人の見つめ合うその一瞬がオルゴールの音色を鱗粉に含ませたサイパンにいる蝶そのもののように感じられた。
朝を向かえ、何も変わらぬ日々に焦りを覚え、陳腐のような日常に嫌気を募らせ、現実の今日という海の中を泳ぐ。COVID-19の無差別攻撃は地球上の人類だけを襲撃したのではなく、南国にいる美しいパピオンさえをも粉々にしていた。
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