診療協同部長兼薬剤部長 野村賢一
車好きの彼からぼくのところに新年の挨拶が届いた。
彼とは大学時代からの付き合いであるが今日では年賀状の往来をするぐらいまで疎遠となっていた。名前は金有銀次(かねありぎんじ・仮名)という。
入学時、彼の名前を聞いたとき、ぼくは名前の中に金と銀が入り交じる男であったから、ぼくみたいな百姓出の貧乏人の男にとって小判のきらびやかな艶を連想させる彼の名前には惹かれるものがたくさんあった。
父親はスーパーマーケットを営んでおり、店の周辺のアパート人口は増加の一途をたどり、それが経営の追い風となり、商売は大繁盛していた。
それ故にぼくは銀次の家庭環境の良さに羨ましさを覚えるとともに運のいい奴だなぁ、と思ったものだった。
大学2年生の秋だったか、ぼくの記憶は薄れてあいまいだが、大垣市の銀次は昭和56年式のフェアレディーZの二人乗りの新車を店で儲けた大金の中から片手で鷲掴みした金で購入した。
ZはTバールーフといって車の屋根がTの字に取り外せた。鳥の羽ばたき姿を想像させるシルエットの美しいかっこ良いスポーツカーなのであった。
車体の色はツートン色、車体はブラック色を基調に厚く塗られており、ボンネットはシルバー色、まったくいやみのない彩りで女性に人気が高かった。
あるとき、ぼくの友人でぼくと同じ安城市に住む病院長の倅の泉酒徳郎(いずみさけとくろう・仮名)が、親のすねをかじって買ってもらった真っ赤なセリカ2000GTでもって、この銀次のZと一対一の真昼の四百メートル走競争(略・ゼロヨン)をしたのだ。どちらの車がどれだけ速いのか勝負したのである。
臨海地帯に伸びる一直線の道路は戦いの舞台としてふさわしい場所であった。
二台の新車が鼻の先をびかびかに光らせて平行に並ぶ姿は見とれるほどさまになっていた。
さえぎる雲のない中での太陽は二台の車の決闘を心底から無情の喜びで歓迎しており、この日この時間この瞬間を待ち望んでいたかのようだった。
直線に長く伸びる道に幅6メートル弱のアスファルト道路は陽光を反射させ、その光がぼくの目を深く鋭く射る。目の奥がじんじんとした。
これから始まる死闘はわずか16秒足らずしてケリが付くのだ。そう自分にいい聞かせ、ぼくはスターターの役割をする。スタート合図にした宙に舞うハンカチを持った手を激しく上から下へ一気におろした。
タイヤの軋み音がアスファルトに轟く。二台は同時にスタートした。爆音が鼓膜を突き刺す。
前方に顔を向けると、Zはギアをローからセカンドに入れ替えるまでにセリカに離された。もちろん、セカンドからサードに入れ替えるときにはもうどうしようもない距離までぶっちぎられていた。
こうなってくると、Zのうなるエンジン音だけが静寂な空気の壁を揺すり、かえってその振動音が車速とのアンバランスを生じさせ、不釣り合いがより幅を利かせるのであった。
今だから言えるのだが、見掛け倒し、情けない限りだ、としか形容するしかないとぼくは思った。
粋なスタイルに比べ走りに関しては全くもって腰が重く、のろいのが玉の疵とぼくはそれ以来銀次のZを見る度に思うようになった。
大学を卒業して数年が経ったある日、ぼくは銀次のZに乗せてもらう機会に出くわした。
なぜ、乗車することになったか理由はまったく覚えていない。ただ、かつてセリカと対決した臨海地帯に到着していたことだけが思い出される。
もちろん、あのとき敗北を期したスタート地点にZは寸分の狂いもなく停車していたのだ。
突然、銀次がこんなことを言うのだった。
「あのときは恥をかかせたが今日のZは中身が違う。加速力を見てほしい。あの過去をチャラにしてくれ」
彼のセリフはナイフでも突き刺すような勢いでぼくに迫り、ぼくは襟首をぎゅっと握られ身震いするしかなかった。
すぐさま、銀次はアクセルを床まで踏む。ぼくはエンジンの空ぶかし音に度肝を抜かれた。凄みと迫力と威圧感といい、あの頃の尻の青かったZが生まれ変わっていたことを一瞬にして感じ取ったのである。
また貫禄もあった。毒のあるドスの利いた音こそ銀次の名に相応しく名実共に本人と車の一体感に成長のあとが伺われた。
外観からは分からないがエンジンそのものを馬鹿でかい排気量のものへと移植したのだった。要するに改造を密かに施したのだ。
ゴーッ、ゴーッ、ゴーッとエンジン音がうなる毎にZはトビウオのように前進する。重力を押しのけて空気の壁をぶち抜いて突進する。
流れる景色は彼方へと粉々にちぎれ、前方の視界はみるみるうちに狭窄を作り縮まる。助手席に乗っていたぼくは悲鳴を抑えるのに苦労してあえいだ。
そのとき、ぼくははじめて銀次の執着心と悔悟と断腸の思いを振動するZとともに感じ取ったのである。
そんな彼から新年の挨拶といっしょに、「今年は新車購入する」という、したたかな連絡が年賀状の一枠に添えられていた。
車好きの銀次がこのように前もって購入宣言を高らかに謳う訳の裏には、きっと腹の内に抑えられない熱いほとばしりを聴いてもらいたいと訴えているからに違いない。
ぼくは銀次がどんな車を買うのであろうか、ぼくの想像力は広がるばかりである。その一方で銀次に伝えたいことがあった。徳
郎が乗っている車はプリウスという1800ccのハイブリッド車であり、経済性で徳を得るにはもってこいの車ということを、だ。
毎晩晩酌でストレスを逃がしている徳郎はもはや車の雄であったかつての持ち主ではない。
ただ、銀次にはアウトロー的な匂いを奮い立たせる、ぶちまく走りの凄さを見せつける、どっ速い車を買ってもらいたい。銀次、人生に負けるな。