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足助病院コラム

Asuke Hospital column

2021/03/02 

Vol.124  「あの時のぼくの語ること今ここで語ること (ぼくのどかちん) 」

執筆 足助病院職員

診療協同部長兼薬剤部長  野村賢一

安城市の自宅から南に65km先にある渥美病院に27年間勤務した後、転勤命令で60km北にある江南厚生病院に5年半、そして今は37km北東にある足助病院で勤務させていただいている。
三病院とも自動車通いしていたので、のべ走行距離は百万kmを超えている。ドラム缶何百本分のガソリンを焼却させたか、計算することもめんどうなのであえてしないが、ぼくのガソリン消費量はアラブ諸国の一国の財政に貢献したことは事実だと思っている。
最初の病院で思い出に残っていることは2000年の新築移転で供給センターを立ち上げたことだ。院内物流のインフラ整備を行い効率の良い物品管理を可能とする組織づくりの実践とそこで働く職員の勤務表づくりに尽力した。
物品の調達に関しては旧病院での日常業務を終えた後新病院に移動し、だだっ広い倉庫の中で深夜まで数人の同僚と荷造りしたのを覚えている。供給センターは地下の隅っこにあり無音、換気扇が止まっていてコンクリートの異臭が出ており、ぼくらはまるで炭鉱の中に入ってもくもくと作業する労働者そのものに思えた。
だからか、内心いつこの「どかちん」作業が終わるのだろうかと不安でいっぱいだった。軌道に乗った供給センターは病院紹介を兼ね添えて、シナリオ、音入れ、ナレーションをセンター職員で行い30分間DVDビデオとして製作し、学会発表後や病院見学に来られた人達に販売した。いずれにせよ、初めての試みで失敗は許されないと肝に銘じてやっていたので辛かったが、どうにかなったのは良い部下に支えられたからだと心から感謝申し上げる。
次の病院では前の病院で齧っていたことの集大成を残そうとぼくなりの浅はかな野心を持って仕事をさせていただいた。専門を最も必要としないものが最も快く専門に立ち向かう、ということで駆け引きのない年寄りの道楽としてチャレンジさせていただいた。大なり小なり、餅は餅屋というように薬剤師の必要性も医療現場に浸透されてきた時代だとぼくは思っている。
彼らの実績を薬剤師としての確かな質の担保として保証する方法として、2005年頃から認定・専門制度が職能団体・学会団体の関係者により発足され、近頃では、約40種類もの認定・専門資格ができている。その中でも、発表・論文・症例・試験を必要とするものだけを選び出し、ぼくは初老の道楽として日向に出て風のない日に庭先の盆栽の剪定をしている老人のごとく、毎年一つずつ医療薬学会認定・指導薬剤師、薬物療法指導薬剤師、がん指導薬剤師、感染制御専門薬剤師、医薬品情報専門薬剤師という鉢植えのおのおのの樹木に手を加え、ひたすら「どかちん」で培った精神で愉しませていただいた。
年間に論文7報手掛けていた時はレフリーからの鋭い指摘があるたびに四苦八苦して直しては送り返した。取りこぼすわけにはいかなかったからだ。もちろん、研修会参加費、登録費、学会参加費等を援助してくださった病院に対しては心から感謝申し上げる。
三番目となる病院は山に囲まれたのどかな風景の中に屹立する新しい病院である。異動して一番うれしかったことは移転事業が完了していたことである。再びあの「どかちん」をしなくてすむからだ。
だが、ここへ来てもぼくの「どかちん」精神は途絶えることを知らない。これまでいろいろな仕事をさせていただいた経験の中で、ぼくの一番好きな仕事は調剤でそれがぼくの原風景そのものであることに気付いたからだ。
処方箋が出力されたら、人が動き、粉薬や錠剤を一包化する機械音も聞こえだす。耳障りな音でもあるが、仕事が動いている気がしてならない。処方箋に書かれている薬剤を錠剤棚より手際よく掴みバットの中に取り入れ、処方内容を確認しながら薬袋に収納し完成させていく。立ち仕事で小まめに体を動かし目が疲れたり肩が凝ったりするのはちょっと嫌だが、部下とリズムよく流れ作業で目の前の仕事を片づけていくのは気持ちが良い。調剤をきれいに終えると「仕事をした感」がデスクワークでは味わえない心地よさとしてからだに残る。
ともあれ、意義を唱える人もいるだろうが、ぼくの「どかちん」は差別用語ではなく上意下達でもなく、ぼく個人の意見としてただ単に受け取ってもらえたらと思っている。
最後に、薬剤師免許一枚で安定的な生計を保証して下さった厚生連に感謝するとともに、異動してもその居場所で、一隅を照らすこれ国の宝なり、が実践できることをみなさんに期待する。
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