MENU
green

足助病院コラム

Asuke Hospital column

2021/03/23 

Vol.128  「あの時のぼくの語ること今ここで語ること (ぼくのゴールデンタイム) 」

執筆 足助病院職員

診療協同部長兼薬剤部長  野村賢一

ぼくの贅沢な日曜日の過ごし方は幸福を感じさせるみやびやかな時間、名付けてぼくのゴールデンタイム、それはオリンピックのメダルのように光り輝く。
片道六十五キロの長距離を車通勤していたぼくは、病院勤務している薬剤師。
毎朝六時に起床し、ほんの十五分のあいだで洗顔、歯磨き、着替え、整髪とまるでベルトコンベアー上の組み立てテレビのように、ぼくは無機質なロボットになりきってテキパキと身支度を済ませていく。
女房のこしらえたおにぎり一つだけを手にして出勤するのだ。このたった一つのおにぎりは朝食と言えるほどの代物ではないが、二時間弱を要する通勤時間帯で食べるにはちょうど良い食事と言える。
マイカーの中には保存食として、ガム、缶コーヒー、ベビースターラーメン、ビスケット、冬場に限ってソーセージ、チョコレート、バナナなども加わる。
一年中、救援物資なみの食料品が後部座席にひしめき合っている。
一日の内の六分の一の時間を通勤にあてるのだから、マイカーの中は必然的に生存していくための生活空間へと変わり、車は走る駄菓子屋みたいになってしまう。
このような忙しない日々を送っていたからか、ぼくは週の半ばくらいになるとその日が終わるごとに、あと二日、あと一日とカウントダウンを始める。
そして心待ちにしている日曜日を励みに仕事に精を出していたのだ。
そして日曜日の朝、精神の緊張が消え失せるのであろうか、休日となると無意識に遅くまで寝てしまう。
ぼくは十時前後に目を覚ます。空に張り付く太陽の陽光に照らされ起床すると、一日の始まりを遅延させたことで少し悔やむが、睡眠不足が解消されているので満足感に浸る。
一週間分の疲労が蒸発した感じがして心が清々しい。しかし、そんな爽快感はものの数分も経たぬ内に消えてしまう。
ぼくの頭の中は正午から始まるゴールデンタイムのことで一杯になってしまうからだ。
ランニングを行う。ランニングといっても走る距離、これが並外れている。三十キロから四十キロを走るから中途半端な距離ではない。(十年前に友人らの誘いでトライアスロンを始め、伊良湖のトライアスロンに四回出場した。トライアスロンはスイム・バイク・ランニングの三種目の合計タイムで順位を競うスポーツ。通勤時間の長いぼくには三種目をバランスよく練習することが難しく、四年間はトライアスロンに没頭したが、その後はランニングだけのマラソンに転向した)
当初、自分でもこんなに長い距離を走れるようになるなど露ほども思わなかった。
人から「どうしてそんなにも走るの、走っている間に何を考えているの」とよく訊かれるが、こうした質問に対してぼくは年甲斐もないことを言ってお茶を濁していた。
「明るい陽射しの中で腕を振りアスファルトを蹴っていると、突如として美しい素敵な女性に出会えるのさ。ぼくが一目惚れしたその人はぼくの走る行く手から表れるのではない。青空に浮く綿菓子のような白い雲を見上げていると、ぼくの理想の女性はぼくの頭の中で笑みを浮かべて現れてくるのだ。その女性は美人で感性豊かで明眸皓歯また美声の持ち主でもあり貴婦人さながらの知的な人。そんな才色兼備な人とぼくはランニングしながら二人きりで語り合ってしまう」
現実は厳しいから誰しもが滅多なことで理想の女性に出会えることはないだろう。ぼくはせめて走っている最中だけでも憧れの女性に出くわして、楽しくも優雅なひとときを過ごさせてもらう。
これが生きていく上での何よりにも勝る健康に良いポジティブ思考ではないか。ネガティブなことは何一つ考えず、楽しいことだけを考え、嬉しいひとときだけを自分の掌中に収める。これこそがまさにストレス社会を上手に生き抜くための秘策そのもののようだ。ランニングの中から生み出したぼくのロマンティック・フラストレーション発散法というべきものだろう。
(架空のその女性はぼくという人間を釣り合いのとれないありがた迷惑な人と捉えることだろう。女性にとっての理想とする男性像は、頭が良くて背が高くて優しくて包容力のある男性といったところだから。その内のたった一要素すら持ち合わせていないぼくがこんなことを書くのだから、ぼくは本当に勝手気儘な調子のいい最低な男といえなくもない。くだらない男ののろけ話ほど質の悪いものはないと思っているが、この際だからさらに羞恥な昏睡状態の間抜け男を続けてみる)
冬の青空に綿菓子のような白い雲がふたつ並んで風に流されている時など、スイートなキスの仕方を想像してしまう。柔らかい二つの雲が徐々に距離を狭めて行き、そっと触れ合い重なり合う瞬間などは、至高かつ純情な接吻が行われたと解釈し、いつの間にか時の流れすら忘れ、いっとき想像力の中で創り上げた理想の女性とぼくはキスの疑似体験を楽しんでいる始末。
吸って吐いて、吸って吐いて、吸って吐くと心臓が心地よいリズムを刻む。一歩足を前へ延ばせば靴音が風に消される。乾いた空気が鼻の頭から頬へと伝わり耳もとでざわめく。
田園の空気と新鮮な風の匂い。近付く草むらに遠ざかる喬木。陽光に背を押されて上下に揺れるぼくの影。土を蹴って緑の木々に見つめられて明るいお天道様に眺められてぼくは生きている喜びを知る。
とびっきり瀟洒な人とデートして心も体もリフレッシュする。日曜の正午から夕方までの時間帯がぼくのゴールデンタイム。誰にもチャンネルを譲りたくない独りよがりと言われようとも構わない。これがぼくの金メダルに匹敵する美しいプラチナ的な日曜日の時間の過ごし方なのである。
(写真は107番が著者)
足助病院コラム
コラム一覧へ戻る