薬剤部長兼診療協同部長 野村賢一
うなぎを食べることでスタミナをつける土用の丑が近づくと、わたしはかつてのことを思い出す。
ある日、カルテを開くとうなぎの釣りのご教授を受けました、と記されていた。
もちろん、これを書いたのは主治医であり、教鞭を振ったのは大腸癌と格闘している七十過ぎの患者なのである。
それを読んだ薬剤師のわたしは面白い話でも繰り広げられたのかな、と思いつつも、これから行う服薬指導の枕詞にうなぎ釣りが役立たないかと思うのであった。
病室の扉をノックし、一通りのご挨拶を交わして患者の枕元の隣に行く。
もう何度も服薬指導しているのでお互いの気心は知れている。
わたしは彼のうなぎ釣りの話に耳を傾け、そのあとでこちらの仕事を丁寧にしようと策略を練っていた。
うなぎ釣りの話は良かった、と先生がカルテに書いていたけど。わたしにも教えてくれないかと子供じみた催促をする。
ほうか、先生がそんなこと書いていたのか、そう、うなぎ釣りは楽しいでな。
ここまで言うと患者は指先を鼻の天辺にあて、目玉を大きく見開き、満面の笑顔を溢れかえらす。そうこうしているうちに、うなぎ釣りの話を始めてくれる。
この時期になるとうなぎが川を遡上するのだがのん。太いうなぎがずんずんとのぼるだよ。
あそこの汐川もその一つだがねん。釣って料理すれば最高の蒲焼きが食えるべ。えらいおいしいぞ。
わたしは初耳だったし、驚嘆するしか術がなく、それは知らなかったときょとんとする顔付きをするしかなかった。やいやい、と心の中で頷く。
あのね、太いミミズ、中指ほどのまるまると肥えたミミズを太い釣り針につけて、竿をだすんや。
川底すれすれにみみずを這わせるのが大事じゃのん。そうしてじっとして待っていると、ぐっぐっと竿が引っぱられるんだぞん。
その引きが、なんていうかな、たまらへん、ええんだわ、あれはいいひきだぞん。
あんたの腕よりはるかに太いうなぎが釣れるんだべ。
わたしは、ただ、ほっ、へっ、すごいですね、と相づちする以外何の言葉も出てこない。
それでもどうにかこうにか、釣ったうなぎはおじいさんが料理するのかねとわたしは訊ねる。
そやそうだ、これがまた大変でな、うなぎって言う魚はいろんなものを食っているから、たとえば釣り針も飲み込んでいる奴もいる。
けっこう、そういううなぎがいるんだぞ。
そいつの首根っこに五寸釘を刺して、出刃包丁で腹を割くと、途中で出刃がその釣り針に当たり、鈍い音がして刃がこぼれてしまうんだべ。
えらいことになっちゃう。生命力強いな、うなぎっていう魚は・・・まったく。
わたしはその瞬間を狙って、うなぎっちゅう奴は、身体に異物が入っていても丈夫に生きていけるというわけですよね、と患者の言葉に釘を刺した。
患者は、そうやそうや、と繰り返す。
わたしは釣り針の一言を聞いて、うなぎがしぶとい魚に思えてならなかった。
だからか、わたしは患者に抗がん剤による副作用である口内炎、下痢、しびれなどの自覚症状がないか問い質し、感染予防についてのマスク・うがい・手洗いの啓発を行い、部屋を出る際、患者に、釣り針のようなしつこい癌が身体にくっついていても、うなぎのようにしぶとく、しぶとく、生きにゃあかんな、と声かけする。
患者は抗がん剤の点滴治療を受けていない片方の腕を持ち上げ頬の筋肉を緩めると、地肌の見える頭をするりとひと掻きさせた。