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足助病院コラム

Asuke Hospital column

2024/01/18 

Vol.454 「厚生連史」

執筆 院長 小林真哉

本日の資料は、〝愛知県厚生連三十年史、愛知県厚生連四十年史〟になります。
こちらの資料は、記念誌というよりはもはや長編歴史小説の様相を示している620ページの大作とカラー写真を中心にシンプルにまとめられた四十年誌となります。
原点に立ち返る意味でも、腰を据えて目を通してみました。
全文を詳細に読み解くことはできませんでしたが、30周年の時期に『厚生連病院はその源流を訪ねれば呻吟する農民の血と汗と涙から生まれた村の小さな診療所に辿り着く』と記載されていました。
更には、『人にわたってもって立つという協同意識に根ざした連帯の意識で発揚させていこうという歴史をもつ』とも書かれており、改めて足助病院にそのDNAを感じた次第です。

創生の歴史には、愛知県における協同組合的発想を基盤とした医療利用組合の原点に西加茂郡藤岡村の藤岡村診療所が挙げられ、終戦直後の加茂病院(豊田厚生病院の前身)建設に関しても記述されていました。
現在では、交通網が整備され車社会になっているので通院・搬送事案の対応はできますが、当初、加茂病院は西加茂郡の挙母町にできたため、東加茂郡の利便はとても悪かったようで、『足助町から17㎞も隔たった病院は、日常的にも利用できるものではなかった』との記述に昭和20年代半ばの時代を感じます。
そして、それらの事情が東加茂郡での足助病院創立をもたらしたのです。
当時の関係者の足助病院建築に関しての苦労は、朝鮮戦争の影響やジェーン台風の影響などの建築環境の悪化等の記載があり世界史の復習になります。
そして、『昭和25年10月16日診療開始し、足助小学校で開院式を執り行った』とあり、ここに足助病院が誕生したのです。
また当時から、『農繁期の10月から12月にかけては、病院は医師を班長に看護、薬務、事務による巡回診療班を編成し山坂をこえて郡内各地を巡り、遠くは病院を隔てた20数キロの部落まで出かけ診療を行っていた』と今で言うへき地巡回検診が行われていたのです。
それを、由来が定かではありませんが〝鍬先診療〟と呼んでいたようです。
75年を経た現在、我々は訪問看護・訪問リハビリ・福祉部門の居宅訪問・訪問栄養指導・〝聴心する足助想診〟を背に纏った黄色い訪問車で伺う訪問診察、若手の研修医や医療従事者が地域の住民の方と交流し、感銘を受けるへき地巡回診療にと脈々と受け継がれていることの重みをひしひしと想います。

※鍬先:新田開発の際に労力出資した農民の権利を尾張地方などでいうこともあるそうですが、鍬先診療という呼び方は関連があるのでしょうか?調べた限りでは判明しなかったので、ご存じの方ご教授いただければ幸いです。

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