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足助病院コラム

Asuke Hospital column

2024/02/01 

Vol.458 「足助病院五十周年記念誌」

執筆 院長 小林真哉

〝足助病院五十周年記念誌〟の装丁は、鶯色の布装丁で、サイズアップして、平成12年(2000年)9月に発刊されています。
頁を見開くと足助病院全体の航空写真(このころはドローンではありませんし4Kデジタルではありませんので、いい感じの風情あるフィルムのもの)が目に飛び込んできます。
病院前を流れる巴川はとても素敵なエメラルドグリーンの水面を呈しており、右岸(河川を上流から下流に向かって眺めたとき、右側を右岸,左側を左岸と呼びます)すなわちパレット側には砂州があり、川の両側は土手になっていてコンクリートの護岸ではなかったようです。

諸先輩の先生方が、アユ釣りに気軽に出かけていたとやら…今は昔、巴川に向かい看護師さんが「先生~!患者さんみえましたよ~」と呼んだ時代があったとか・なかったとか…おそらく、平成の時代ではなく昭和の時代だと思いますが… 
次頁には、若かりし早川名誉院長の発刊のことばです。2000年当時のお写真なので今から約23年前で、50歳にして自らの知命・天命を想われていただろう当時の写真です。
現院長の私も、あすけあい・モチベーション・バイタリティーは負けじと精進しておりますが、明らかに早川先生のほうの毛量が多いのは否定できませんが、まあ、各々、73歳と57歳の現時点で軍配は早川先生に挙がり素敵な白髪になっていますし、私はご覧のとおり…ですので…
本文は早川先生らしい理知的で数字に彩られたあいさつ文となっています。

その後に続く寄稿文の面々(足助町長・旭町長・下山村長・稲武町長)から想いのこもった文章にも歴史を感じます。
年表を眺めて面白いことに気づきました。
昭和62年4月、正面玄関自動ドア設置に伴い〝下足預かり〟廃止とあります。となりますと、院内は土足厳禁だったのでしょうか?
すかさず、現役の足助病院生き字引の職員に確認したところ、
「そうですよ。昔の足助病院はスリッパに履き替えていましたよ。靴を管理してくれる専属の職員さんも居ましたよ。○○さん、△△さんご存じないですか?」
その当時は私が大学で医学を学んでいた頃になるのですが、周りに下足という概念は無かったですが、足助地域はゆったりした時間軸で進んでいたのでしょうか?
平成9年(1997年)に第1回院内やすらぎコンサートホール開催とありますので、その当時から、人々の集うコミュニティーホスピタルとしての役割も果たしていたものと思います。
その想いは、私の〝足助病院ブランディングプロジェクト -共奏編-〟にて院内外でのSax演奏等に受け継がれています。
これからも練習に精進し仲間の力を借りながら頑張って参ります。

あ―、〝足助病院五十周年記念誌〟も1コラムでは無理でした。
次号も続きます。お楽しみに。

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