「HPのコラムをいくつか読ませていただきました。先生はオチのつけ方がうまいですよね。昨日のコラムも素敵でしたよ」というメールが先日届きました。
文筆を生業としているライターの○○さんからです。昨年、彼とは数時間のディベートとその後のメールのやり取りで、三島由紀夫氏の言霊について意見を交わす仲です。
出会いは僕自身を取材対象とする仕事で、事前から足助の理念・コラム掲載やら色々と合格点のハードルを上げたので準備万端で警戒して来てくれました。
相手のことを知ろうとする⇒相手のことを調べる⇒相手をリスペクトする⇒その相手の対応度で今度はこちらがリスペクトする。
よくよく足助病院および私のことを勉強してくれたのでとても良い取材となりました。
文章を書くのが好きな人同士の緊張感・高揚感が心地良いものでした。
その後送付された、1400文字に込められた私の人生観・医療理念を凝縮した文章はライターとしてのプライドと筆力で仕上げた素敵な仕事で、私自身が校正の手を入れるところはありませんでした。これもまた “自他一如”と思います。
もっとも取材当日は東京から来院されたのですが、“1聞かれると10答える”私の悪い癖が災いして、夕方からの取材が終わったころには夜の9時が過ぎ、急遽、豊田市駅前に泊まることになったようです。
病院内で利用者さんにふと声をかけられて感想を伝えてもらったり、診察場で患者さんに身の上話を絡めて深堀してもらったり、院外からのメール等での感想はとても心地良いものです。私自身の可愛い自己顕示欲を揺さぶり、次なる創作に向かうモチベーションにつながり、今まで掲載したコラム達への愛着を深めてくれます。
僕にとってコラムは掲載し続けることだけが目標ではありません。最大のメリットは、コラムを書き続けるというモチベーションとコラムネタを探し続けるというあくなき探求心・興味の源となり、僕自身の風度(Vol.60 参照)の醸成に役立つことなのです。
となると、コラムの目標点1000編もないほうが良いのかもしれません。書けなくなるまで続けるという選択肢が正しいのかもしれません。
今回いただいたメールでこのコラムを書くことができました。改めてコラムを書くことの意義について向き合った感があります。
そうそう、○○さんはオチを期待してます。
改めて、私自身にとってコラム“結の扉”の存在意義が、『腑にオチた』訳です。